良寛の書、一行物は茶掛になる(3)
3. 書の伝来
墨跡の伝来はその価値と関連してきます。
これには二つの対象があり、すなわち禅家における伝来と、茶家における伝来とがある。
例えばかの無準師範の墨跡「潮音堂」は、誠一国師が博多承天寺創立に際し、師から送られてきた額字の一つであるが、これは後に聖一国師が開いた京都の東福寺に伝えられ、
寛永十八年(1641)同寺修築にあたって手放され、小堀遠州の手に帰した。ここまでが禅家における由緒となり、遠州から後は茶家における由緒となるのである。すなわちこの幅は遠州が茶会にこれを用いて酒井忠勝を招いたところ、その値打ちを問われ、得意げに
一字千金と答えたため、忠勝はこれを持ち帰って、本当に三千両を届けて自らの所有にしてしまったという逸話が生じたのである。いずれにしても墨跡の場合は、早くから貴重視されたので、色々と由緒の作ったものが少なくないのである。*①
ひるがえって良寛の一行物ですが、阿部家の所蔵です。
詩人であり、歌人であった阿部定珍は、良寛の良き理解者でありました。その阿部家に伝えられた幅が上の一行物です。
こちらの一幅を掛けて、良寛と定珍は、侘び茶を楽しまれたのでしょうか。気のおけないお茶会だったのでは、と想像されます。
*出典:① 茶の掛物 千宗室監修