高倉院崩御の知らせを聞いて(1)建礼門院右京大夫集を書いて

1.高倉院とは

建礼門院右京大夫集 祥香書

高倉院は、第八十代天皇。後白河天皇皇子、母は平時信の女建春門院滋子です。
八歳で天皇として擁立され、政務は父後白河院が院政を敷きました。治承2年
平清盛の娘と時子の娘である平徳子、後の建礼門院を中宮に迎えました。

治承3年の政変によって、父である後白河院と叔父の平清盛との対立が激化し、結局は清盛が後白河院を幽閉する事態となりました。ここで後白河院の院政が停止され、高倉天皇が政務を取ることとなります。しかし、翌年には生まれたばかりの皇太子に譲位され安徳天皇となりました。

高倉院は学問・詩歌・音楽とりわけ笛の盟主であり、寛大で温情ある性格であったため、多くの人に慕われたということです。

中宮徳子に支えていた頃、作者もお側近くで接する機会があったので、高倉院崩御の報を聞いての嘆きは大きかったことでしょう。

 参考文献:国史大辞典