鎌倉にて道元が詠む(5)

5. 正法を伝えたい
道元が移った地、越前の志比庄では当初、仮住まいの草庵でした。本格的な道場を建てて、「大仏寺」と名付け、「永平寺」と改名されました。

道元はここで、釈迦牟尼の仏教を継ぐ仏教者の育成に専念したのです。それまでの道元は在家の修行や得度につい好意的でありましたが、入山後は、出家を優先させるようになったと言われています。

道元が「出家主義」に転じたという人もいますが、「修行中心主義」ということができます。*①

道元自身が、正法を求めて宗国にまで渡ったのは、日本国内で正しい法を教えてくれる、正師に会うことができなかったからです。仏祖伝来の正法を後世に伝えたいという志は、強いものがあったと推察されます。

大衆がわかるように法を説くとすれば、人々に迎合し、歪められてしまう危険も孕んでいるからです。そこで、当時の中心地、鎌倉から遠い越前の永平寺を、自らの都として修行に励む姿を人々やときの権力者にもみせ、固い決意を詠まれたのでしょう。

           *①出典:正法眼蔵  ひろさちや   NHK出版