「蝉の聲」にみる芭蕉俳諧の歩み(3)

3.宗房が談林俳諧に出会う
寛文六年(1666)、主君であり俳諧の師であった蝉吟が二十五歳で病没しました。
これを機に、宗房は藤堂家を辞し、江戸へ向かいます。

ここで、宗房は談林俳諧の中心的人物、宗因と出会い、「桃青」と号します。
延宝六年には俳諧の宗匠となりました。

  「天びんや京江戸かけて千代の春」 (蝶々子編『俳諧当世男』延宝四年)
「かけて」が、天秤に「掛けて」の意と、京都も江戸も「共に」の意を表す「かけて」
との掛詞であり、「千代の春」にも、「千代をかけて」の意を効かせてある。*①

「談林俳諧」とは、もとは江戸の田代松意の結社を指すものでしたが、大阪の西山宗因を中心とする新風の呼び名となりました。伝統的な貞徳流に対抗して、軽妙な口語使用と自由な着想で流行したのです。

「談林俳諧」の特徴のひとつである軽妙な語り口に欠かせないものに、同じ音を持ち意味が異なる掛詞にあります。その際、あえて漢字を用いず仮名で表記することが重要です。
なぜなら漢字を使うと、意味がひとつに限定されるからです。

例えば、前出の「かけて」の場合に、もし漢字で「掛けて」と表してしまうと、天秤に「掛けて」の意味に定まります。そうすると、もう一つの意味「共に」の意味を表す「かけて」が自動的に消えてしまいます。

和歌においても、「花」や「月」などの漢字は見られるものの、変体かなを用いる訳は、表現する世界の想像力を広げることにもあると思います。ことばは抽象的な事物を表しているのですから、共通認識が根底にあれば、より表現の幅が拡張していくのでしょう。

        * 出典:墨 234号 伊藤善隆